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今昔、土佐の酒の物語

土佐の酒宴

■皿鉢料理 -Sawachi Ryori-

■皿鉢料理 -Sawachi Ryori-

高知での宴席に欠かせないのが「皿鉢(さわち)料理」。絢爛豪華な大皿に鯛の生け造りに代表される「生もの」と、寿司をはじめとして山海の珍味や焼き物、揚げ物、和え物、果物から水菓子まで旬のものが盛り付けられる「組み物」に大別されます。

また、この料理は節句、法事、神祭、お客(宴会のこと)など、嬉しいにつけ悲しいにつけ、その席を華やかに彩る料理の主役でもあり、同じ土佐でも家々によって独特の盛り付け方が見られるのも特長です。

「器」から芸術的な「盛り付け」まで、目にも鮮やかで豪快なこの料理は、高知の豊かな産物と、大らかでくったくのない土佐人気質を代表する味そのものといえます。

●高知県酒造組合発行「土佐酒インフォメーション・酒国土佐」より

■箸拳 -Hashi Ken-

高知では宴会も半ばになると、座興のひとつとして「箸拳(はしけん)」という遊びが始まります。

これは二人で行う遊びで、双方3本ずつの箸を隠して持ち、独特のかけ声とともに片方の手を差し出して数の合計を当て合う競技です。負けた方は、中央に置かれた献盃を飲まなければならないルールなので、いやが上にも場が盛り上がる仕掛けになっています。

この遊びは、威勢よくリズミカルな掛け声と調子でおこなわれるので、宴席は大きな歓声に包まれてしまい、事情がわからない県外のお客さんには、まるで喧嘩をしているように映るようです。

■可ク杯 -Beku Hai-

高知では、宴会を盛り上げるために独特の盃が利用されることがよくあります。

ひとつは「穴あき盃」とか「そらきゅう」といわれるもので、盃の底に穴があけてあります。つまりその穴に指を添えて酒を入れて飲むわけですが、飲み干さないと盃を置けないので、自然と酒量が増えてしまうという仕掛けです。左上写真のひょっとこがその「穴あき盃」で、口の部分に穴があいています(底から見た写真)。

もうひとつは「可ク盃(べくはい)」と呼ばれるもので、盃の底がとがっているため卓上に置くと横に転がってしまいます。この盃も注がれた酒を飲み干さない限り置くことができません。右の写真がもっともポピュラーな天狗の「可ク盃」で、当然「鼻の部分が底」という不条理な構造になっています。

このように、高知では「酒」そのものに限らず、宴を盛り上げるためのアイテムが豊富に用意されていて、文化としてだけではなく生活の一部として継承されています。

●地酒屋発行「土佐の酒袋」より・広谷喜十郎先生による原文を改稿

■ 土佐の宴席と女の酒

- 高知県女性問題アドバイザー・民俗学研究者 / 岩井信子 著 -

土佐では酒宴のことを広く「お客」と言うが、このお客と言う言葉は土佐の宴の伝統的な性格を秘めていると私は思っている。

例えば「○○さんの息子は秋にはお客だそうな」のお客は、結婚を意味するし、「先輩の初孫のお客に招(よ)ばれている」のお客は、名付け=誕生祝いのことである。結婚や名付け、初節句、成人、賀の祝いをはじめ、厄年厄除け、門出(かどいで)や送別、それに花見、月見の宴も、およそ酒汲み交わす集という集(つどい)はすべて「お客」。土佐のこの「お客」は神祭(じんさい)の直会(なおらい)と同義語であり、もとは斎(いわ)い、祝う宴を言う語であったと思われる。

土佐の祝宴に「大杯」(おおさかずき)という儀式がある。杯台に載った朱塗りの大杯と焼鯛が酒席の一人一人に回ってゆくものであるが、これは神に供えた酒と肴を一座のすべての人が飲み合い食べ合うことであり、神と人が一つに結ばれる儀式である。花見、月見も、もとは豊穣を予祝して行なう神人共食の宴であった。故に、土佐の酒席はその性格の必然として皿鉢料理と土佐式献杯となる。

土佐式献杯は目下から目上に杯を差す。会席や本膳料理形式をとる他県とは反対である。他県では目上から目下へ、である。もし目下から杯を差そうものなら相手を目下扱いしたこととなり先方の不興を招く。これが土佐では「向こうの席に恩師が見えている」と杯を持って席を立ち「あちらに会社の部長がいる」とそちらへ出向く。こうして次から次へと献杯をして歩く。目下からの献杯は目上に対する敬意の挨拶である。受けた杯は飲み干して返し、こうして一しきり互に杯を交わし合って歓談する。

あちらでは日頃の恩顧に感謝をのべ、こちらでは近況を語り合い、この人とは思いがけない再会を喜び合い。他県の人はこの光景に驚く。「動きまわる」「自席にいない」と。しかし、土佐では生酔(なまよ)いや取り澄ました態度は招いた側にもまわりの人にも非礼となる。一人一人がおおいに飲み、語り、宴席を盛り上げることがマナーである。だから一人所在なげに自席にいる人を見れば見知らぬ人であっても杯を差し、たちまち歓談の輪に引き入れてしまう。そこに親密な出会いが生まれる。敬意の献杯に対しては目上もまた屈託なく目下に杯を差す。目上も目下を目下扱いしない。即ち土佐の宴は、神の前には人皆平等「杯に摧参なし」、人を身分の上下に隔てないのである。

私どもは土佐人(びと)の気質が育んだ宴の作法をより磨き、広く他県に土佐の文化を発信したい。土佐弁は荒いと言われるが、土佐人の心はナイーヴである。酒に弱くて人をもてなせるものかと献酬に「精進」し、酒豪にと「成長」する。相手を酔い潰すほどの献酬は土佐のもてなしの表現なのである。

酒の国土佐の、男が酒豪なら女性もまた飲みっぷり見事で当然であろう。土佐の女性と酒の背景には「男女は対等」の潜在的な土佐の意識がある。南は太平洋、北に急峻な四国山地を背負い、陸の孤島と言われた土佐では女性は男性と同じ仕事をし、男も女も主体的に暮らしを営まなければならなかった。男に養われ男に依って生きたのは一握りの階層の女性でしかない。土佐の男女が対等に生きた証は伝統的な行事や儀式、生活習慣の中に様々に見ることが出来る。

例えば葬式、人生の終焉を弔う最も厳粛なこの儀式において、男女は平等にその役割りを担っている。また土佐の女正月のしきたりにも夫と妻が互にいたわり合って生きてきた美しい証を見ることが出来る。戦後までの、女性地位の長い冬の時代にも土佐の男と女、夫婦は主と従の関係にはなかった。夫と妻は家庭でも地域社会の単位としても一対の主体であった。

酒席においても土佐の女性は男に侍るのではない。男に互して、おおらかに酒を酌み交わすのである。

●地酒屋発行 土佐酒ガイドブック「土佐の酒袋」より

■ ドブロクハンター

- 元高知税務署関税課酒税第2係 西山紀さんの話の聞き書きを再構成 -

昭和24年〜26年ごろといえば、敗戦後の食糧事情によって、酒類の生産は極端に不足した状態であった。昭和16年10月に始まった酒類の統制配給により、酒造家への米、アルコール、糖類なども配給で割り当ての規制も厳しく、酒造蔵では税務署の役人が毎日つきっきりで検査を行った。

役人は自分が受け持つ酒屋から酒屋へ毎日自転車で片道20里の砂利道を走った。検査が終わると、その蔵の蔵人たちが寝泊りする会所部屋とは違う部屋を構えてもらい、一晩泊まった後、次の酒屋へ検査に出かけた。

一般へは冠婚葬祭の時には役場から酒が支給された。引換券のようなもので交換してくれるのだが、わずか3升であった。「酒の国」ともいわれる高知のことだから、絶対的に酒の量が不足するわけで、当然のごとく密造酒が跋扈する。酒の良し悪しは関係ない。その量は酒造家が造ると同じ程に横行し、闇から闇へと消えていった。当時は酒税が国政を支えるほど大きい割合を占めていたので、酒の製造免許なしに造られ税金のとれないドブロクを徹底的に取り締まることになるのである。当時の高知税務署関税課酒税第2係の役人たち「ドブロクハンター」の出番だ。

ドブロクハンターは2〜3人のチームを組み、上はジャンパー、木綿の労働者ズボンに鳥打帽という服装。まさにハンターである。時には眼鏡などかけて変装した。税務署の他課の役人とは違い、出勤は駅。密造酒の作り手達は酒を運ぶため必ず汽車に乗る。密造地帯近辺の駅からはかなりのホシが乗り込んでくるはずだ。列車が走り出した後、ハンターたちは客車に入り、大きな声で「皆さん!今より密造酒の検査をいたしますのでご協力ください!私は高知税務署関税課酒税第2係の○○です」といって、身分証明書を前に突き出し、検査を始める。(最初は大声で言うのが恥ずかしく真っ赤な顔で取り締まったそうだ)

手荷物がドブロクなら持って置いてすればぷるるんとなる。ドブロクはゴムの氷枕に詰められて風船のようになっているからだ。「これは誰の荷物だ!?」といってもまず誰も名乗らない。捕まって罰金をとられるよりモノを持って行かれるほうがマシだからだ。押収されるドブロクをじーっと恨めしそうに見るホシたち…。ハンターはその日の取り締まりが終わると「明日は○○駅に○時に集合」と解散し、次の日また別の駅に集合する。

こうなると密造酒の造り手も知恵を使うから、いたちごっこである。昔の氷枕には酒が3升ほど入った。今度はそれを3つ〜4つ、多い人は5つを背中に負う。その上から赤ちゃんを負う時の”ねんねこ”を着せて赤ん坊の帽子を上にちょんと乗せる。まるで赤ん坊を背負うかのような格好をして酒を運ぶのだ。 10升は1斗で18kg、それ以上だからかなり重たい。不自然な歩き方でピンとくる。そーっと後ろから近づいて「可愛い赤ちゃんだねぇ」といってぽんと叩くとポロッ。ドブロクが顔を見せて「御用」である。

挙句の果てにはドブロクの入った氷枕の口を紐で結んで、列車の窓から出し、その紐を一生懸命握って持ち、いざという時はそれを放すという荒技まで登場。ゴムのドブロク風船をぷらぷらさせながら走る列車。さぞかし不思議な光景だったことだろう。

また、山深い村にドブロク狩りに行ったときは「おとうちゃんはあっちでお酒を造っているよ」と子供が無邪気に案内してくれた。しかし、生活も貧しく何もない村で楽しみといやぁ酒しかない時代。そういった少し胸が痛むドブロク狩りもあった。捕まるのは似たり寄ったりの連中で、そのうち顔見知りになったりして、税務署を退職したのちも高知の街角で自分が摘発した人物とばったり出くわしたりもした。昭和40年代に入った頃には生活の安定とともに密造酒は消えていった。

●地酒屋発行 土佐酒ガイドブック「土佐の酒袋」より

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