藩政時代の歴代土佐藩主のほとんどは愛酒家でした。また、最後の土佐藩主・山内容堂(やまのうちようどう)の見事な飲みっぷりや、坂本龍馬を筆頭とする幕末維新の志士と酒の関わりに見られるとおり、土佐では淡麗辛口の地酒を豪快に飲み干すことが伝統として受け継がれています。
その飲み方といえば、豪勢な皿鉢(さわち)料理を前に献杯(けんぱい)、返杯(へんぱい)の応酬。興に乗れば「はし拳」を打ち、負けては飲み、勝っては飲みの繰り返し。
豪放磊落な土佐の宴席のスタイルは、その歴史が作り上げてきたともいえるでしょう。
幕末、薩長連合や大政奉還で大活躍をした海援隊長の坂本龍馬について、妻のお龍は「龍馬の酒量は、量り兼ねる(略)同志の人々と京都から、伏見へ帰って来る途中、何うだ冷酒を一杯づつ呑って行かう(略)凡一升五合も這入らうかと思ふ程の大きな丼へ浪々と酌がせ(略)独龍馬は一息に一升五合を飲み乾して、息を吐く事虹の如しでした」と証言しています。
漁業の神様といわれた浜田又右衛門(はまだまたえもん・又四郎)は、幕末、土佐清水市養老生まれ。土佐隋一の鰹釣りの名人で、その妙技は抜群で一日最高四千匹を釣上げ、大漁旗をいつも独占していました。
酒は強く一斗酒を平気で飲んだ逸話があり、或る時、藩主の前で三升の酒を飲んでみせ、みんなをびっくりさせたという話も伝えられています。
田中貢太郎(たなかこうたろう・桃葉)は、昭和四年に「旋風時代」を発表し、大衆作家の地位を確立、尾崎士郎、井伏鱒二らを集めて雑誌「博浪沙」を刊行しています。月の名所・桂浜(かつらはま)にある記念碑に「酒ヲ愛スルコト命ノ如ク」と刻記されているほど酒仙家でした。
昭和四年に、桂月(けいげつ)の碑が除幕された時、貢太郎が清酒を注いだことから、毎年仲秋の名月に実施される桂月の酒供養がはじまったといわれています。
土佐藩二代目藩主・山内忠義(やまのうちただよし)は立派な鎌ヒゲをもつ六尺豊かな大男で、或る時、京都の二条城での酒宴後、大いに酔い諸肌脱いで駕籠の上に乗り、京の町筋を通り、京の町人たちをびっくりさせたといわれています。
三代目藩主・忠豊(ただとよ)も酒好きで、「酒をやめれば日本国の半分をくれると言うても酒をやめることができない」と高言しています。